赤ずきん、信じない

 赤ずきんはもう何も信じていなかった。

 まず第一にもうすぐ14歳にもなるというのに”赤ずきん”などと言う愛称で呼ばれること自体、恥ずかしいものだった。ましてやそれが友人知人に留まらず、実の家族からもそう呼ばれるのだから、全く合点がいかない。

「お母さん、やっぱりこのずきん、被らなきゃ駄目かな?」

「赤ずきん、毎日同じこと聞かないでって言ってるでしょ? そのずきんはあなたにとってとても大事なものなの。常に被ってなきゃ駄目なの」

 そもそも愛称の由来である赤いずきんを常に被らされていること自体、彼女にとっては不愉快極まりないものだった。8歳のころ、その愛らしいずきんをもらって初めて被った時はとてもうれしかったが、今の彼女はもうそういう年齢でもなかった。

 もっと色々なおしゃれもしたい。家族からだって名前で呼んでほしい。ただでさえ悩みを抱え込みやすい思春期において、彼女はまさに欲求不満の状態だった。満たされるのは、ただただ募る周りへの不信感ばかり。

 家族は自分を愛していないのか? 誰も私を助けてくれないのか?

 理不尽な自分の状況を、更に自分で追い詰めるかのように毎日毎日自問自答を繰り返していた。

 そんな彼女に追い打ちをかけようとしているのが、この村の慣習だった。

「大体、誕生日は明日なのよ、あなたも旅立ちに備えて、しっかり心の準備をしなさい」

 だったらそんな子供じみた愛称で呼ぶのをやめてよ、と心の中で叫んだ。そして暦をじっと見る。明日の日付に赤い丸が書いてある。明日になれば赤ずきんは、この村から出ていかなければならない。「14歳の誕生日に家を出る」という、慣習なのだから。

 とは言っても、一体どこへ行けばいいのか、何故旅立たなければいけないのか、これからどうやって生きていけばいいのか、誰からも教えてもらっていない。聞けば「心の準備をしろ」と言われるばかり。しかも肝心の旅の支度自体については、何も言われていないから何もしていない。そんな状態で、一体どんな心を準備しろと言うのか。

 そんな状況を前向きにとらえようとすれば、考えつくのはただ一つ。これでもう「赤ずきん」という呼び名ともおさらば出来るということだけだった。

 いや、もう一つあった。

「王子には、会えるかな」

「そうね、王子もあなたに会いたがってるかもしれないわね」

 お母さんの答えに、赤ずきんは無言でうなずいた。

 王子、と言うのは本当の王子様のことではない。2年前、自身の14歳の誕生日の時に旅立っていった、かつてこの村に住んでいた少年のことだ。彼もまた、赤ずきん同様周りから「王子」という愛称で呼ばれ、きれいな王冠を被らされていた。本人はやはりその名で呼ばれることを嫌がっていたが、赤ずきんにとっては自分のことなど棚に置いて、誰よりもしっかりと王子を王子と呼んでいた。

 赤ずきんにとっては、彼は本当の王子様そのものだった。

 王子が村を去って2年が経ち、その間一度も王子とは連絡が取れていないが、赤ずきんは旅に出れば、きっとどこかで王子と巡り合えると信じていた。周りも家族も信じられない彼女が、唯一信じている夢であり、希望だった。

 旅への不安と、家族への不信感と、あこがれの彼への想いを募らせながら、赤ずきんの13歳最後の夜はゆっくりとゆっくりと更けていった。

 そして翌日、14歳の誕生日を迎えた赤ずきんは手慣れた様子で赤いずきんをかぶり台所へ行くと、何やらお母さんが何かの支度をしていた。自分の旅じたくだろうか、と様子を見たがどうも違うようだった。

「これを、おばあちゃんのところへ届けてほしいの」

 そう言ってお母さんは干し肉と葡萄酒が入ったバスケットを赤ずきんに手渡してきた。赤ずきんは怪訝そうな表情を浮かべながら問いかけた。

「私、今日誕生日なのに何でこんなことしなきゃいけないの」

「誕生日だから、おばあちゃんにきちんと挨拶してこなきゃ」

 話が通じないというのはこういうことを言うのかと心の中で呟きながら、赤ずきんはしぶしぶバスケットを受け取った。おばあちゃんの家は赤ずきんの家からさほど遠くないし、お母さんの頼みを聞くのも、おばあちゃんに会うのも、もうしばらくないのだと思えば、理不尽なこのお使いでも行ってもいいかなと考えることはできた。

「寄り道をしては駄目よ?」

「分かってるって。子供じゃあないんだから」

 相変わらず自分を子供扱いするお母さんに嫌気がさしながら、赤ずきんはバスケットを持って家の外へと飛び出した。眩しい朝の光に目を細めながら、赤ずきんはおばあちゃんの家に向かって歩き出した。

 赤ずきんの家からおばあちゃんの家までは、歩いて20分ほどかかる。間にある小さな森を通り抜けていかなければならないが、道も整備されており、14歳になる赤ずきんにとってはさほど苦にはならなかった。

 この日も赤ずきんはいつもとなんら変わらない様子で森を通り抜けようとしていたが、ふとなんだか周りの雰囲気がいつもと違うのを感じた。それが何なのか、具体的には分からなかったが、何か空気感と言うか、森全体を覆う気配がいつもと異なっているかのような気がしていた。

 だけど、それをただの気のせいだと自分に言い聞かせて森の半分ぐらいまで進んだ頃だった。胸につかえた違和感がいよいよあふれだしてきて、赤ずきんは思わず足を止めて真剣にあたりの様子を、気配を探り始めた。

 何かが、普段いない何かがこの森の中にいる……赤ずきんはそう直感していた。呼吸を沈めて、耳を澄まし、森の中のありとあらゆる気配を感じ取ろうとする。

『駄目駄目、そんなに気配立てて気配を探っちゃあ、相手に自分の気配を知らせているようなものさ』

 突然、聞こえてきた声。……いや、聞こえてきたというよりも、まるで頭の中に声が響いたような感じだった。赤ずきんは得体のしれない感覚につばを呑みこもうとするが、上手く喉を通っていかない。

「だ……誰かっ、いるの……!?」

 怯えた様子で問いかける赤ずきんに、声は少し間をおいて答えた。

『じゃあ、後ろを振り返ってごらん』

 再び頭の中で響いた声。赤ずきんは言われたとおりにゆっくりと、ゆっくりと頭を後ろへと回す。そして目をせわしなく動かして声の主を探すが、どこにも見当たらない。

『もっと目線を下げて』

 その声の通り赤ずきんは目を下へと向ける。すると、ちらっと見えたのは何か黒いもの。恐る恐る更に目線を下げ、それが黒い獣の毛だと分かった瞬間、赤ずきんは息を呑みこんで一歩後ろに退いた。叫び声を上げようとする衝動が、喉元まで押しあがっていた。

『おっと、ここで大声を上げるのは得策だとは思わないな』

 声はそう言うが、しかし普通の女の子であれば、この状況で大声を上げない方が難しいだろう。赤い目をし、まるで王冠のような金色のたてがみを持ち、全身は黒い毛並みの狼が目の前に現れ、しかもそれが人語を解して語りかけてきているなどと言う、特殊な状況で。

 だが、赤ずきんは普通の女の子ではない。普通の”信じない”女の子だった。些細なことでさえ疑い、信じない彼女にとって、あまりにも現実離れしすぎているこの状況は、むしろ一度手放しかけた冷静さを取り戻すのには十分だった。

「お……狼が、人間の言葉を話せるわけないでしょ……誰か、他に、誰かいるんでしょ!?」

『他に誰かいたら、それで君は今の状況に納得するのかい?』

「えっ……」

『野生の、ただの狼が、わざと悟らせるような気配をふりまいて、人間の背後にぴたりとついて、それで襲わずにいられるとでも?』

 妙に長い物言いだったが、狼が言いたいことは赤ずきんにも伝わった。

 彼が、ただの狼ではないという主張が。

「ただの、狼じゃないなら、何だって言うのよ……!?」

『別に、ただじゃない、狼さ。狼であることには変わりないよ。ただ、本当にそれだけのことさ』

 何の答えにもなっていないじゃないかと、赤ずきんは詰め寄りたかったが、得体の知れない相手を下手に刺激でもしてしまえば、何をしでかすか分からないため、ぐっと喉もとでこらえた。そもそも、相手の言葉を真に受けては、信じてはいけないというのは赤ずきんのポリシーでもある。

「……その、ただじゃない狼が私なんかにいったい何の用だって言うの……!?」

『用は……そうだな、特別何か用があるってほどでもないんだけど……例えば……』

 狼はまるで赤ずきんの問いへの答えを探すかのようにうつむいたり、あたりを見渡したりしていたが、ふと赤ずきんの持っていたバスケットに目を止めてはっとした表情を浮かべて言葉をつづけた。

『そう、例えばそこに入っているおいしそうな干し肉と葡萄酒。それを少しだけ分けてほしいと言ったら、どうする?』

「どうする、って……」

 干し肉はともかくとしても、ただの狼が……いや、ただでないとしても、狼が葡萄酒なんて欲しがるのだろうか。無理矢理に理由をつけて赤ずきんに絡もうとしているようにも見えた。

 だが、信じることをしない赤ずきんにとって、この状況は少し難しい状況でもあった。そもそも赤ずきんが否定すべき「信じ難いがギリギリ信じられなくもない人・物・事柄」の範疇を優に超えた次元で、しかも想像しがたい速度で展開しているのだから、赤ずきんの「信じない」という行為が次々とおいてけぼりをくらってしまっていた。

 俗に言う「ツッコミどころが多すぎてツッコミきれない」である。

「……少しだけ、ってどれぐらいのことを指すのよ?」

 回転しすぎて逆に回転していないに等しい頭でようやく絞り出した言葉をぶつけてきた赤ずきんを見て、狼は余裕たっぷりに彼女に近づきながら問い返した。

『それは転じて、くれる……って言う風に受け取ってもいいのかな?』

 そもそも、狼が自分に近づいてきている、などと言う状況が発生すれば、本来は逃げ出すのが定石だが、赤ずきんの信じないというポリシーは結果的に一周回って冷静さを失い、不要な落ち着きさえ生みだしてしまっていた。

 赤ずきんは顔をひきつらせながらもその場にしゃがみ込み、バスケットに手を入れながら狼の方を見た。

「これはおばあちゃんへの届けものなの」

『じゃあ、少しもらうだけにしよう』

 辛うじて残っていた良心と冷静さで言葉を振り絞り、暗に「干し肉も葡萄酒もあげられない」ことを伝えようとした赤ずきんだったが狼の悠然とした、まるで貴族のような振る舞いにさすがの赤ずきんもそれ以上言葉がなかった。

『どうしたの、くれないのかい?』

「……す、少しだけ、本当に少しだけ、よ?」

 そう言って赤ずきんは一枚の干し肉を地面に置き、葡萄酒を手の平に微かにだけ注ぎ、狼の前に差し出した。

『物わかりが早い人、好きだよ』

「狼にそんなこと褒められたって……!」

 全く嬉しくない、そう言いかけて赤ずきんは言葉を止めた。微かに頬が熱くなったのを、自分で気づいたからだった。ただの狼ではないとはいえ、所詮は獣であるこの狼に言われた言葉で、自分の感情が揺れ動いているという事実すら、赤ずきんにとっては信じがたいことだったが、もう一つ赤ずきんの頭の中で信じ難い何かがひらめきかけていた。ただ、そのことを考えようとするとまるで頭にもやがかかったかのように、考えがまとまらなくなってしまうのだ。

 狼は既に干し肉をぺろりと飲み込むようにして食べ終え、赤ずきんの手に注がれた葡萄酒をぴちゃぴちゃと舌で飲んでいる最中だった。そんな狼をじっと見つめながら、赤ずきんはまるで小さく息を吐き出すように狼に問いかけた。

「ねぇ……」

『なんだい?』

「あなた……誰?」

 赤ずきん自身、自分の口から出た言葉に違和感を感じずにはいられなかった。答えはさっき聞いている。目の前にいるのはただじゃない、狼だ。赤ずきんにとってはそれ以上でもそれ以下でもないはずだった。だけど、だけどそれでも赤ずきんは聞かなければならなかった。

『それは、僕が誰かであってほしいって言う願望かな?』

「えっ……」

『……ははっ、酔うと喋りすぎちゃっていけないな』

 狼のそんな声が頭に響くのと当時に、狼は鼻から息を吐き出した。見た目の様子は変わらなかったが、微かに狼も動揺したように見えた。

『そうそう、一つだけアドバイスしておくよ』

「……アドバイス?」

 狼の突然の言葉に赤ずきんは首をかしげた。狼はその様子を見ると微かな笑みを浮かべながら言葉を続けた。

『信じない、と言うポリシーは大事だけど、自分のことや、自分の考えだけは信じないと大切なものを見落としてしまうよ……今みたいに』

「……どういう意味? あなた……誰なの……!?」

『さてと、干し肉と葡萄酒、おいしかったよ』

 全てをはぐらかすように狼は軽く舌で口の周りをぺろりと舐めた後、赤ずきんに背を向けてしまった。赤ずきんはハンケチーフで手を拭きながら狼の後姿を見ていた。

『まぁ、あと一つだけヒントを上げるとすれば……そうだね、多分またあとで会うことになると思うよ』

「あとで……!?」

『きみがお婆さんの家に行った後』

「……帰り道ってこと? またここで待ってるの?」

『いいや、僕はここでは待っていないし、君は多分……ここを通らないはずだから』

「どういうこと……?」

 しかし狼は最後に少しだけ振り返って微かな笑みを浮かべたかを思うと、すっと森の中に入っていってしまい、やがて気配すら感じなくなってしまった。道に残された赤ずきんは一人、ただ茫然と立ち尽くすだけだった。

 まるで今まで見たことが全て夢だったのかと思うぐらい現実味がない。だけど確かに干し肉は一枚減っているし、手を拭いたハンケチーフからは葡萄酒の香りがする。少なくても今起きた出来事自体は、夢なんかではなかった。信じないようにしたくても、証拠が目の前にいくつも残っていては、赤ずきんも信じるしかなかった。

「……そうだ、おばあちゃんのことろにいかなきゃ……」

 赤ずきんは自らに言い聞かせるように呟くと、ゆっくりとお婆さんの家を目指して道を歩き始めた。勿論、道中頭の中はあの狼のことでいっぱいだった。

 あの狼はいったい何者なのか。何が目的で赤ずきんに近づいてきたのか。そして、やはりあれは本当に現実だったのか、などと色々と、色々と考えていて、そんな様子だからお婆さんの家につくのはあっという間だった。

 赤ずきんの心の中にはもやもやとしたものが残っていたが、ふぅっと一つため息をつくと、笑顔を作って家のドアをノックした。

「誰だい?」

「赤ずきんです。おばあちゃん」

「ああ、赤ずきんかい。どうぞお入り」

 赤ずきんはその声に応えるようにドアを開けて家の中へと入った。ここはとても小さな家で、おばあちゃんが寝ているベッドと、テーブル、そして簡素な台所と小さな暖炉があるだけだ。人一人が住むのにやっとという大きさで、年老いたおばあちゃんが何もこんなところに住む必要はないのにと、赤ずきんはずっと思っていた。

「今日はどうしたんだい?」

 ベッドからおばあちゃんの声が聞こえる。赤ずきんはまた息を一つ吸いこんで、感情を押し殺すかのような口調で答えた。

「今日は出発の日だから、挨拶にと思って。ほら、干し肉と葡萄酒も持ってきたの」

「じゃあ、テーブルに置いといてくれないかい?」

 おばあちゃんはベッドに寝たまま、こちらを見ることなくそう答えた。赤ずきんは言われるがままテーブルに干し肉と葡萄酒を置きふぅと一息をついた。……おばあちゃんは相変わらずベッドから出てこない。今度は息を吸い込んで、おばあちゃんのベッドに近づいて行った。

「どこか、具合でも……」

 そう言いかけて、赤ずきんは言葉を止めた。息を吸い込んだときに、鼻があるにおいを感じ取ったのだ。

「具合が悪いわけじゃないんだが、ね。ちょっと待ってておくれ」

「え、ええ……」

 赤ずきんの声が、微かに震えた。赤ずきんが感じとったにおい、それは紛れもなくあの狼の匂いだったのだから。そして赤ずきんはあの狼の言葉を頭の中で思い返していた。

 ――多分またあとで会うことになる

 背筋の震えを感じ、赤ずきんはおばあちゃんに悟られないように、静かに一歩後ろに下がった。赤ずきんの頭の中に浮かび上がったのは簡単な、しかし信じ難い式だった。「あの狼がおばあちゃんに化けている」という発想は、赤ずきんの「信じない」考え方からすれば突拍子もない発想だったが、辻褄はあう。

 おばあちゃんがベッドから出てこようとしないのも、さっきの狼の言葉も、今狼のにおいを赤ずきんが感じとったのも、今、ここにいるおばあちゃんが狼であれば、話の筋が通るのだ。赤ずきんが十分信じざるを得ない状況が、揃っていたのだから。

 飲み込もうとしたつばが喉を通らない。仮に狼がおばあちゃんに化けるとしても、その理由が全く思い当たらない。いや、思い当たらないわけではなかったが、思い当たりたくはなかった。狼が、おばあちゃんに化けて、赤ずきんを家におびき寄せるなんて、思いつく結末は一つ。

 狼が、赤ずきんを食べてしまう。

「どうしたい、赤ずきん。急に静かになって」

「……何でもないよ、おばあちゃん」

 身体の震えが、呼吸の震えが、精神の震えが、おばあちゃんに伝わってはいけない。赤ずきんは必死に心を落ち着けた。そして自分に言い聞かせる。自分が今想像した全ての過程を、疑えと。

 自分のおばあちゃんが狼なはずがない。

 全てはただの自分の思い込みでしかないと。

 熱で鈍る頭を必死で回転させながら、赤ずきんはおばあちゃんがベッドから出てくる瞬間を待った。出てくるのが狼ではないと信じるのではなく、出てくるのがおばあちゃんに化けた狼であるという自分の想像を疑いながら。

「おばあちゃんこそ、どうしたの。ずっと布団にくるまったままで」

 だから赤ずきんはとにかく、おばあちゃんの姿を見たかった。その焦りがおばあちゃんに不審に思われないよう、とにかく自然な口調で言うよう心掛けた。

「……やれやれ、せかす子だねぇ」

 そう言って布団にくるまっていたおばあちゃんが、ようやくもそもそと動き始めた。赤ずきんはつばをひとつ飲み込んで、ギュッと体をこわばらせた。

 狼ではありませんように。

 狼ではありませんように。

 狼ではありませんように。

 赤ずきんは心の中で何度も何度もその言葉を繰り返しながら、ベッドの上でうごめくおばあちゃんを凝視していた。

「どっこいせと」

 おばあちゃんのその声とともに、布団は大きくめくられ、その中から彼女が姿を現した。

 2秒、3秒ほど赤ずきんは黙って彼女の姿を見続けた。……間違いない、その姿は赤ずきんの知るおばあちゃんそのものだった。

「どうしたんだい、そんな顔をして」

「え、や……何でもない、何でもないの」

「おかしな赤ずきんだねぇ」

 おばあちゃんの姿を確認して、赤ずきんは少しだけ落ち着きを取り戻したが、彼女の疑念が全て拭えたわけではない。狼がおばあちゃんに化けているという可能性が消えたわけではないのだから。

「これが赤ずきんが持ってきてくれた葡萄酒と干し肉かい?」

「え、えぇ」

「そうかい……少し減っているようだが、どうかしたのかい?」

「あ……」

 おばあちゃんの問いに赤ずきんはどうこたえるべきか一瞬迷った。もし、おばあちゃんがあの狼なら、普通に考えれば自分が食べたり飲んだりしたものについて、何故減っているのかなどと聞いてくるはずはない。だが、それを逆手にとって、赤ずきんを欺こうと演技をしているのかもしれない。赤ずきんもけん制する必要があるのかもしれないが、だがもしおばあちゃんが普通におばあちゃんであれば不自然な言動はおばあちゃんに不信感を与えかねない。もしかしたらそれがおばあちゃんに化けた狼の狙いかもしれないが、狼がそんなことを狙う意味も理由も見当たらない。

 そもそも、赤ずきんは今自分が何を考えているんだったかだんだんよくわからなくなっていた。

「……途中で狼が現れて、食べちゃったの」

「狼が? ここに来る途中で?」

 赤ずきんがようやく絞り出せた言葉は、一切のオブラートにも包まない、ただの真実だった。それ以外の言葉なんて、今の赤ずきんからはひねり出すことはできなかった。

「……そう、それで合点がいったわ」

「合点……何の?」

 おばあちゃんが不意に口にしたその言葉の意味を、赤ずきんの混乱している頭は理解することが出来なかった。赤ずきんの問いにおばあちゃんは含んだ笑いを浮かべ、ややおぼつかない足取りで赤ずきんの方へと近づいてくる。

「ところで赤ずきん、狼が葡萄酒と干し肉が好きなのは知っているかい?」

「え? ……いえ」

「じゃあ、狼が人間に化けることが出来ることは知っているかい?」

「っ……!?」

「おや、何を動揺しているんだい?」

「な、何も……!」

 狼が人間に化ける。あの狼がおばあちゃんに化けている。そう想像していた赤ずきんにとって、おばあちゃんの今の言葉は驚きと焦りを生んでいた。

 いや、思っていたことを口に出されたのだから驚くのは仕方のないことだった。

 だが、赤ずきんには焦る理由など何もないはずだった。にもかかわらず、赤ずきんの心には言い知れない焦燥感が広がっていた。本能的に、自分が追い詰められているのを感じていた。

 しかし、立場がおかしい。赤ずきんは狼を追い詰める立場にこそなりはすれども、自分が追い詰められる立場になるはずが本来なかったのだ。この状況、おばあちゃんの言動、赤ずきん自身の動揺……これではまるで。

 赤ずきんが狼ではないか。

「どうしたんだい、大きく目を見開いて」

「ち、違う! 何でも……何でも……!」

「まるで獲物を狙うケダモノのようだねぇ」

 そうだ、赤ずきんには王子へのあこがれ意外に、もう一つだけ信じて疑わない、疑いようさえない事実があった。

 それは自分が人間だということ。勿論、いくら赤ずきんとはいえ、自分が人間だという事実を信じない、なんてことは考えたことさえなかった。

 だが、赤ずきんはもっと早い段階で気づかなければいけなかった。

 何故あの狼が赤ずきんを襲わなかったのか。

 何故赤ずきんはあの狼に対して恐怖しながらも最後まで冷静に対応できたのか。

 そして何故、この部屋に入って嗅いだ匂いが、狼の匂いだと特定できたのか。

 そう、赤ずきんはこの家に来る前に狼と対峙はしたが、そのにおいをしっかりと嗅ぐ瞬間なんてなかった。それにもかかわらず赤ずきんはそのにおいを狼のものだと識別できたのだ。そんなこと普通の人間には出来るはずがない。

「そうそう、狼は人に変身していてもねぇ、大好きな葡萄酒と干し肉を目の前にしてしまうと本当の姿に戻ってしまうんだよ……まぁ、ぶどう酒と干し肉のよさが分からない子供の狼が変身していた場合は、速攻性は無いみたいだがねぇ」

「おばあちゃん、何を言ってるの……違う、私は、私は!」

「ところで赤ずきん、しばらく見ぬ間に随分と……手が白くなったねぇ」

「え……!?」

 赤ずきんにはもう何が何だかわからなかった。

 手が白い?

 誰の?

 色々な情報が赤ずきんの中で錯綜していて、何の話をしているのかさえすぐには理解できなかったが、ようやくおばあちゃんの言葉の意味が赤ずきんの中で繋がり始めると、赤ずきんの身体が震え始めた。

 別に年齢を重ねたからと言って、赤ずきんの肌が美白になったわけでは勿論ない。

 赤ずきんは、恐る恐る、自分の目線を下へと下げていく。まるであの狼を見たときの様に、ゆっくり、ゆっくり。

 そしてちらりと、何か獣の毛の様な白いものが見えた瞬間、赤ずきんは声にならない叫びをあげていた。

「――ッ!!」

 確かに、赤ずきんの手は白かった。正確に言えば、赤ずきんの手の甲に白くてやわらかな獣の毛が生え始めていたのだ。赤ずきんは慌ててもう片方の手でその毛の触感を確かめる。そしてそれがまぎれもなく自分の手から生えていることを自覚した。と、同時にもう片方の手にも毛が生えていることを、いやでも自覚しなければならなかった。

「……よく見ると、それはケダモノの毛みたいだねぇ、そう、まるで……狼のような」

「違う! 違う違う違う違う違うの! 違うの!」

 赤ずきんは必死で否定した。目には涙を浮かべ、首を大きく横に振った。だが、赤ずきんのそんな様子におばあちゃんは表情を変えずににじり寄ってくる。赤ずきんは恐怖のあまり、一歩後ろに下がろうとするが、足腰に力が入らずにその場に腰を落としてしまった。

「ぁぅ……!」

 赤ずきんは身体を支えようと、自分の手を地面に付けたが、その瞬間手に痛みが走った。何事かと思って自分の手を改めてみた瞬間、また赤ずきんは言葉を失った。目に映ったその手は、既に見慣れた自分の手ではなくなりつつあったのだから。

「指、指が、や、何で……!?」

 少しずつ、少しずつ短くなっていく指。代わりに指先から伸びる黒く鋭い爪。手の大きさは徐々に小さくなっていき、手のひらはぐっと肉が盛り上がって肉球に変わっていく。

「まぁ、鋭い爪。伸ばしすぎじゃないかしら」

「ちが、違うの……聞いて……!」

 とうとう赤ずきんの目からは大粒の涙がこぼれ始めた。そして痛みの残る手を……いや、獣の前足と化したそれでなんとか身体を支えて立ち上がると、まるですがるようにおばあちゃんに歩み寄った。

「何が起きてるの……おばあちゃんがやってるの? ねぇ……答えて、答えてよ!」

 赤ずきんは喉がつぶれんばかりの大きな声でおばあちゃんに問いかけたが、おばあちゃんは取り合うことなく、そして異形の姿に変わりつつある孫のことを恐れる様子も、不思議に思う様子もなく、すっと近づくと、赤ずきんの頭を優しく撫で始めた。

「赤ずきんは本当にそのずきんが似合ってるねぇ。でも、それじゃお耳が隠れて私の声が聞こえないんじゃないかしら?」

「おば、おばあちゃん……?」

 おばあちゃんは戸惑う赤ずきんを気にもせず、いきなり彼女のずきんをすっと後ろにずらして脱がした。それと同時に甲高い声をあげて赤ずきんにまた問いかけた。

「おやまぁ、赤ずきん。しばらく見ない間に耳も随分と大きくなったねぇ、ピンととがって、やっぱりケダモノの毛が生えていて」

「え……あ、ああっ!?」

 赤ずきんはその変わり果てた前足で、恐る恐る自分の耳に触れる。それは確かに、自分の知っている耳の感触とは異なっていた。いや、既に手の形も感覚も変わってしまっていて、モノをつまむこともできないので、正確に自分の耳の形をとらえることなんてできなかったが、それでもいつも自分の耳に触れる感触とは大きく異なっていたことはすぐに理解できた。

 そして自分の耳が、狼の耳になってしまったという事実も。

「嘘だ、嘘だ、嘘だ……違う、こんなの、こんなの違う……!」

 赤ずきんはおばあちゃんを、そして自分の身に起きていることを拒絶するように、また一歩後ろに下がろうとした、しかし赤ずきんの足にはもう力が入らず、それになぜかバランスも取りづらく、すぐに後ろにこけてしまい、その拍子で靴も脱げてしまった。

「おや、足も手と同じで真っ白で小さいのねぇ。それにお尻から、何か見えているわよ」

「もう……もう、やだ……何で……!?」

 おばあちゃんの言うとおり、足は手と同じで指が短くなり、獣の後足へと完全に変化していた。だから立っていてバランスがとりづらかったのだし、今こけたはずみで簡単に靴が脱げてしまったのだ。

 そして、お尻から見えていたのは、白くてふさふさとした獣の毛の房。それは赤ずきんのスカートの下から姿をのぞかせている。間違いなく、赤ずきんから生えた獣の尻尾だ。

「まったく、大丈夫かい、赤ずきんや」

「いや! 来ないで……来ないで、来ないで!」

 優しく近寄ってくるおばあちゃんに、赤ずきんは言い知れない恐怖を感じて、変化で痛みを感じる全身に鞭を打ってその場から逃れようとする。形の変わり果てた四足をなんとか使いながら少しずつ身体を這わせてドアへと向かうが、しかし彼女に起きた変化は、既に全身をむしばみ始め、彼女の体の自由を奪っていった。

「あ、あぅぅ……!」

 ずれ下がったスカートと服の合間から、彼女の健康的なやわ肌が姿を現したが、すぐに真っ白な獣の毛で覆い隠されていく。骨格が、筋肉が、彼女の幼さの残る姿が、きしみながら歪んでいく。

「いや、狼に、狼になんか……なりたグゥ……なりたくない……! ……おおか、ウオ…オオ、カミ……ガゥ……グ、グウォウゥゥ!?」

 それは決して外見だけの変化ではなかった。赤ずきんは喉がギュッと何かに絞められたような感覚を感じた後、その声を奪われた。口をつくのは、獣の猛々しい唸り声だけ。そして、その声に呼応するように、彼女の口も、鼻も、大きく形を変えていく。

 鼻先は周りの肉を巻き込んで前へ前へと突き出し、イヌ科特有のマズルへと姿を変えた。歯は鋭い牙へと変わっていき、舌は長くなり、だらしなく垂れ下がった。

 普段は頭巾で隠れて他人に見せることは無かったが、ブロンズの長い髪は赤ずきんの自慢の一つだった。しかし、その髪もいつの間にか全て消えていて、代わりに頭頂部から背中にかけて、まるで彼女がいつも付けていた頭巾のような、赤い毛がたてがみの様に覆っていた。

 ようやく全身から痛みが引いて、赤ずきんは立ち上がろうとするが、上手く体を起こすことが出来ない。骨格はもう完全に四足で立つのに適した形に作り変わってしまっている。全身を覆う白い毛。ふさふさの尻尾。湿った鼻先。そこにいるのはもう赤ずきんではなかった。

 確かに赤ずきんの着ていた服を身にまとっているし、赤いたてがみには彼女の面影が微かにある。だが、それだけだった。

 今そこにいるのは、紛れもないただ一匹の白い狼だった。

「フッー、フッー……ガゥ……グ、グウォウ!? ……キュゥゥ……!」

「おやおや、大きな口に、獰猛な鳴き声。さすがはケダモノだわね」

「ガゥッ!?」

 おばあちゃんの言葉に赤ずきん……だった白狼は驚きと悲しみと焦りと憤りと、それはもう色々な感情がごちゃまぜになった鳴き声を上げながら振り返った。だが、見上げたおばあちゃんの顔が妙に遠く感じて、表情が上手く読み取れなくて、それが白狼の恐怖をあおった。震える背筋。こわばる尻尾。何かを訴えたくても、喉が締め付けられているみたいにこわばって、それ以上の唸り声も上げられない。

 その時、白狼は不意にドアの外から人の気配を感じて、慌ててドアを見上げるとすぐにドアをノックする音が聞こえてきた。

「婆さん、俺だ。様子を見に来たぞ」

「ああ、あんたか。入んなさいな」

 声はそう答えると、ドアがゆっくりと開かれた。

 白狼はその声に聞き覚えがあった。確か、村に住む有名な猟師の一人だ。その事実に気付いた瞬間、白狼の身体ががくがくと震え始めた。猟師は当然、猟師なのだから、こんな民家に、狼が上がりこんでいるなんてことを知ったら。

「なっ……こいつ!」

 猟師は白狼に気付くや否や、担いでいた猟銃をすっと取り出し、瞬く間に白狼に狙いを定めた。

「婆さん、どうしたんだこいつは?」

「どうしたもこうしたも、赤ずきんに化けてこの家に入りこんで、私を食べようとした不届きな狼さね。だけど、まだ若いみたいで化けるのが未熟でねぇ」

「はん、婆さんの孫になり済ますとはいい度胸じゃねぇか」

 おばあちゃんと猟師の間で、勝手に話が進んでいく。勝手に話が作られていく。赤ずきんは今や赤ずきんではなく、赤ずきんに化けた一匹の狼だ。このままではそれが真実になってしまう。おばあちゃんと猟師が、ここにいる狼が狼ではなく、本当の赤ずきんであることを信じなくなってしまう。

「ガゥッ! グウォウ!」

 狼なんかじゃない! 私は本当に赤ずきんなの!

 白狼は必至で訴えかけたが、狼がいくら吠えたところで人間には伝わるはずなどなかった。猟師は白狼に狙いを定めたまま静かに、しかし強い口調で問いかけた。

「今すぐここを出ていけ! ……さもなくば!」

 そう言って更に銃を白狼に近づけた。白狼はびくりと身体を震わせて、止まらない涙で毛を濡らしながら、慣れない四本の足を引きずるようにしてドアの外へと向かっていく。途中ちらりとおばあちゃんと猟師を振り返るが、相変わらず表情の読み取れないおばあちゃんと、恐ろしい形相の猟師の姿は白狼にその場から逃げだす決意を促すには十分だった。

 そして白狼はおばあちゃんの家の外に飛び出したが、村へと続く道をすっと見渡すが、その道を歩み出すことは無かった。

 この姿で村に戻っても、村の人を驚かせてしまうだけ。

 この姿じゃお母さんだって私だって気付いてもらえない。

 この姿じゃ。

 もう、村には帰れない。

 白狼はあふれ続ける涙で滲む視界を、前足でなんとか拭う。自分のとる行動一つ一つが人間のそれとはかけ離れていて、そのたびに白狼の、赤ずきんの心は何かに強く、強く締めつけられた。

 そして白狼はにわかに道の横に広がる森に飛び込んで、一心不乱に走り始めた。身にまとった服や頭巾が木々に引っかかり、そのたびに服や頭巾は破れて、身体はバランスを崩して地面に転がり、きれいな白い毛並みが泥に汚れていく。その白狼が、本当はあの赤ずきんであるという証が、面影が、徐々に薄れていく。

「ハァッ……ハァッ……ァフ……ウウォゥ……!」

 荒れる息。微かに喉から洩れる声。だけどそんな些細な行動一つさえ、狼そのものだった。その事実から逃げ出したくて、走れば走るほど、彼女の姿は、身体は、心は、狼に順応してゆく。

 嫌だ。

 狼になんてなりたくない。

 こんなの嘘だ。

 信じない。

 信じたくない。

 いやだ。いやだ。

 いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ。

 嫌だっ!

「ァオォォォォォオウゥゥゥゥン……!!!」

 白狼の中の赤ずきんの心に幾重にもなって押し込められた、受け入れがたい現実への感情は、まるで世界中へと響き渡るかのような強く、哀しい遠吠えとなって押し出された。

 着ていた服も、トレードマークの頭巾も全て脱げてしまい、身体は何度もこけて泥だらけ。誰が見たって、赤ずきん自身が見たって、この狼が赤ずきんだなんて信じないだろう。

 どうしてこんなことになってしまったのか。

 今日は赤ずきんにとって特別な旅立ちの日になるはずだった。信じることのできない家族や周りの人から離れ、数少ない信頼できる王子のもとへと旅立てるはずだったのに。

 こんな姿ではもう、王子にだって会うこともできない。

 もう、二度と。

『そんなところで何を鳴いてるんだい?』

 赤ずきんの心が絶望に打ちひしがれそうになった瞬間、不意に聞こえた声に、白狼は耳をピクリとさせた。その声には覚えがあった。聞いたのはついさっきなのだ、忘れるはずもない。白狼はあわてて声の聞こえてきた方を振り返った。その目線の先には、予想通りの姿があった。

『さっきも注意しただろ? 大きな声を上げるのは得策じゃないって。こうやって、僕みたいなのがすぐに駆けつけてくるんだからね』

「グウォウ……!」

 黒い毛並みに、金色のたてがみ。そこにいたのは、赤ずきんがおばあちゃんの家に行く前に会ったあの狼だった。

「グルルルル……!」

『それもさっき注意しただろう? そんな風に気配を逆立てちゃあいけないよ』

 黒狼はにこりと一つ微笑むと、すっと素早い足取りで瞬く間に白狼の元に駆け寄った。

「ウォン! ワゥゥ……!」

『そんな唸り声上げなくていいよ。僕に言いたいことがあるなら、僕に想った言葉をぶつければいいんだ』

「グ、グウォウ?」

『僕の声、耳で聞こえると言うよりも、頭で響く感じだろう? ただじゃない狼にだけ使える、まぁ、一種のテレパシーみたいなもんさ』

 黒狼の言葉に白狼は困惑の表情を浮かべながらも、頭の中で言葉を目の前の黒狼にぶつけるイメージを作り上げた。

『こ、こう、かな……?』

『あぁ、いい感じだ。きちんと伝わってるよ』

『そ、そう……』

 緊迫感のない黒狼の姿に、白狼は戸惑いと呆れを同時に感じていた。一瞬、さっきまで感じていた絶望が少し和らいだが、すぐに自分の身に起きた事実を再確認するとまた涙があふれ始めた。

 今、この黒狼は確かに「ただじゃない狼にだけ」「一種のテレパシー」が使えると言った。白狼は、赤ずきんは今あっさりとそれを使うことが出来たのだ。つまりそれは、赤ずきん自身が”ただじゃない狼”であることを証明したことになるのだから。

『……なんで、こうなっちゃったの、私は……私は、人間なのに……』

『いいや、君は僕と同じ、ただじゃない、特別な狼だ』

『違う! 違う違う違う! そんなの聞きたくない! ……聞きたく、ないよ……!』

 白狼は怯えるような目で、黒狼のことを見つめた。そうだ、思えばこの黒狼に会ってしまったことが、全ての歯車が狂い始めた始まりだったのかもしれない。もしかしたら、あそこで干し肉と葡萄酒を上げた時に何か呪いでも掛けられたのでは。白狼の脳裏にそんな想像が駆け巡ったが、それは表情と、テレパシーで黒狼に伝わってしまったらしく、黒狼は怪訝そうな表情を浮かべた。

『嫌だなぁ。僕はそんなことしたりしない』

『だって……!』

『君は最初から、狼なんだよ。君は狼で、人間に化けていただけなんだよ。ずっと、ずっと、ずうっとね』

『嫌だ……そんなの、信じない。信じ……られない』

『信じたくない、の間違いじゃないかな』

 黒狼の遠慮のない言葉に、いよいよ追い詰められた白狼はきっと黒狼を睨みつけて言い放った。

『何でそんなこと言うの! 私は人間! 私は赤ずきん! それが真実なの! 自分が狼だなんて、自分が人間じゃなかったなんて、信じない……信じない!』

『じゃあ、君は何だったら……誰の言葉だったら、信じられるの』

『それは……!』

 赤ずきんが信じられるもの。それは自分。そして……ただ一人大切な、彼。……いや、自分の存在が信じられなくなった今となっては信じられるものは、彼だけかもしれない。

『……そんなことを、あなたに言ったって仕方ないでしょ!?』

『どうして?』

『どうしてって……そんなこと……!』

 そんなこと、決まっている。

 そう白狼は言いかけた。だけど、彼女の言葉は不意に止まった。言葉を続けようと息を吸い込んだ瞬間、鼻に飛び込んできた匂いを嗅いだ瞬間、赤ずきんの中の全ての思考が止まった。

 そう言えば、完全な狼と化した今の赤ずきんの鼻は更に研ぎ澄まされていた。おばあちゃんの家で狼のにおいに気付いたとき以上に、彼女の鼻は色々な匂いを嗅ぎわけることが出来るようになっていた。

 だから、とっさに気付いたのだ。今目の前にいる黒狼の匂いが、どこかで嗅いだ事があるにおいであることに。それは決して、さっきこの狼に初めて会った瞬間のことではない。もっとずっと、昔のはず。

 そして、記憶の中に眠る一つの匂いにたどり着いた瞬間、白狼の目にはまた涙がたまり始めた。

 嘘だと思いたかった。でも同時に、信じてみたかったし、自分の鼻を疑いたくもなかった。そして、白狼は……いや、一人の夢見る少女は、静かに、恐る恐る、その名前を口にした。

『王……子……!?』

 赤ずきんのその一言を聞くと、黒狼は少し時間を置いた後、首を一つ、ゆっくりと縦に振った。そして白狼に更に一歩近寄って、にこやかにほほ笑んだ。

『嘘、だって、え……え!?』

『どうしたんだい、その事実もやっぱり信じられない?』

『信じられないよ! だって、王子は人間だし、こんなところにいるはずなんて……』

『君自身が狼になってしまったのに、まだ僕が、あの人間の王子だったって信じられない?』

『……信じられないんじゃないの、信じたく、ないの。だって、それを認めたら……私が狼になった事実も認めなきゃいけなくなるから……』

 黒狼の優しい瞳に、白狼は目を合わせることが出来なかった。

 初めて見た瞬間から、この狼には何かを感じていた。まるで以前出会ったことがあるような感覚を覚えていたが、それはただの錯覚だと思っていた。

 だが、今赤ずきんの中でそれらすべてのピースが繋がり、一つの形になっていた。

『でも、疑いたくない、嘘であってほしくない、夢であってほしくない、って気持ちも強いの。……だって、だって私、私は……私は、ずっと、王子に会いたかったから……!』

『……赤ずきん!』

 二匹の狼は、その瞬間お互いの中で押さえていた何かが切れたかのように、互いに一歩近づいて、そしてぐっと顔を近づけると、鼻と鼻がぶつからないようにお互いの顔を傾けて、ゆっくりとお互いの唇を重ね合わせた。込み上げてくるお互いの全てを、全て受け止めるように、優しく、しかし強く。

 言葉を交わさなくても、二匹の想いは確実に相手に伝わっていった。

 やがて黒狼はそっと白狼から唇を離すと、まっすぐな瞳で彼女を見つめながら語りかけた。

『……今ここにいる僕は、一匹の狼だ。さっき君に王子かと聞かれて首を縦に振ったけど、それは嘘なのかもしれない。そんな僕に、君は……』

『間違うはずない。……いや、自分が人間だって思いたい私が、自分は狼じゃないって否定したい私が、こんなこと言うの、おかしいのかもしれないけど……』

 白狼は少しうつむきながら、徐々に声を小さくした。もし彼女の顔が毛で覆われていなければ、きっと彼女の顔は真っ赤になっているのだろう。

『私が、狼になった私の鼻が、王子の匂いを間違うはず、無いから』

『……ップ、はは……!』

『わ、笑わないでよ!』

『はは……ごめんごめん、嬉しくてさ、思わず』

『……嬉しい?』

『だってそうだろ? 君は変わり果ててしまった自分の姿を、僕の姿を、見てもなお、僕が僕であることを、君が君であることを認めてくれたんだから』

『王子……』

『……赤ずきん、僕もずっと会いたかった。自分が狼になってしまった時からずっと、ずっと、ずっと、この時が来るのを待っていたんだ』

 黒狼のその言葉には、確かな気持ちがこもっていた。そして、続けてゆっくりと真実を語り始めた。

『僕らは……狼なんだ。君も僕も、狼なんだよ、本当は』

『本当に、私は最初から狼なの? あなたや、おばあちゃんが私を狼に変えたんじゃなくて?』

『ああ……ただ、変身のきっかけを作ったのは僕だし、加速させたのは君のお婆さまだ。だけど、ただそれは、君の本当の姿を出させただけにすぎない』

『信じ、られないよ。……やっぱり、すぐには、受け入れられない……自分が、王子が、人間じゃなかったなんて……』

『気持ちはわかる。僕も最初はそうだった。だけど、これは試練なんだ』

『……試練?』

『人間として生まれてしまい、人間として育ってしまった狼が、狼らしく生きるためのね』

『試練……って、もしかして、もしかして今までの流れって……!?』

 もしかして、旅に出ることを強制されたのも、おばあちゃんの家に向かわされたのも、その道中狼に出会ったのも、狼になってしまった後、猟師が現れたのも……!?

『全部、試練……まぁ、平たく言っちゃえば、お芝居さ。君に本当の姿を取り戻させるための、ね』

『お芝居……』

 白狼はそれを聞くと、ペタンとその場に腰を落として、尻尾を力なく地面に寝かせた。なんだか、急に全身の力が抜けてしまったみたいだった。

『僕自身、まだ全てを知ってるわけじゃないけどね、僕らの村って昔、人間と狼の間に生まれた一族が住んでいて、僕らはその子孫なんだってさ』

『そんな、おとぎ話みたいなこと急に言われても……』

『分かってる。そんな話はどうでもいいんだ。大事なのは、僕らは本当に狼で、だけど同時に人間でもあるってこと。そして村では、子供のうちは人間として育て、ある程度大きくなったら狼として育てる風習が出来たらしい』

『じゃあ、私はこれから、狼として一生を過ごすの?』

『一生を過ごすと決まったわけじゃない。これからしばらくの間、狼として生活して、人間と狼どちらで一生を全うするのか、決めていけばいい』

『じゃあ、戻れるの? 人間の姿に』

『狼の生活をきちんと学び、それでも人間に戻りたいと思って決断すれば、戻ることは可能さ』

『それは、私が決めることなの?』

 白狼はつぶらな瞳を黒狼に向けていた。涙はもう、大分収まったみたいだった。

『だってそうだろ? 君の人生なんだから、君自身が……』

『そうじゃなくて。だって私の、決める道なんてさ、その……』

『……どうかした?』

『……私は、王子の決めた道と、同じ道を歩みたいから』

 白狼の言葉が黒狼の耳に届いた瞬間、黒狼はきょとんとした表情の後、不意と顔を横に向けて耳を恥ずかしそうに後足でかき始めた。

『ちょ、やめてよそういう狼っぽい行動! 仮にも”王子”なんて品のある呼び名なんだから』

『え、だって関係ないでしょ? 呼び名は呼び名。あくまで僕は僕。君だってそうだろう?』

『そりゃあ、まぁ』

『じゃあ、赤ずきんに必要なのはまず、人間と狼の生活のギャップを埋めるところから、始めなきゃ駄目だね』

『そんなこと言っても……自信無いよ、狼として暮らすなんて……』

『大丈夫、僕が付いてるから』

『え?』

 不意な黒狼の言葉に、白狼は目を丸くして彼を見つめることしかできなかった。

『僕が、狼の先輩として……夫として、君を支えるから』

『え、ちょ、え? え? ……えええ!?』

『赤ずきん、結婚しよう』

『……』

『……』

『……え?』

『赤ずきん、結婚しよう』

『……』

『……』

『……いや、ちょっと待って待ってちょま、ちょ、何でこのタイミング!?』

『え、嫌なの?』

『いや、嫌とかじゃなくて!』

『じゃあ、OKってこと?』

『え? OKって、今の、プロポーズ、が、だよ、ね?』

『うん』

 多分、この瞬間が赤ずきんが生きてきた中でいちばん長い瞬間だったかもしれない。頭の中で、短い瞬間に色々なことを考えていた。

 赤ずきんはまだ14歳だし、狼になったばかりだし、確かに王子はあこがれの存在で、将来結婚したいなとか夢見ていたけど。だけどもだけど。

『わ、私まだ、そういうの分かんないし、どうこたえていいのか、分かんないんだけど……!』

『けど?』

『……わ、私、なんかで、本当にいいのなら……王子が、わ、私のこと……』

『僕は、赤ずきんのこと好きだよ? だから、こうして迎えに来たんだから』

『……うん』

『うん、じゃなくてさ。赤ずきんは、僕のこと……』

『好きにきまってるでしょ!?』

『じゃほら、話早いじゃん』

『でもほら、こういうのは普通段取りって……』

『狼の世界に、そんなまどろっこしいのはいらないよ』

 黒狼は笑顔でそう言い放った。それを見て白狼は、違う意味で、本当に違う意味で、恐怖を感じた。

 王子、選ぶ道決めてんじゃん。

『どんな姿だって、僕は僕、君は君。僕は君が好きで、君は僕が好き。それ以上、それ以外に、何か必要な要素ってあるかな?』

 黒狼のその問いに、白狼はブンブンと首を横に何度も振った。その間に、赤ずきんは自分の中でもう一度、決意を自分に言い聞かせていた。

『私は、王子と一緒なら……どんな姿だって、どんな生活だって、恐くないから』

『……ありがとう』

 そう言って王子はもう一度、赤ずきんに優しく唇を重ね合わせた。

 全てがまるで夢を見ているみたいだった。突然姿が変わって、恐い思いをして、だけどあこがれの人と再会をして、結婚まで決まって。

 でも、これが夢じゃないことは、唇が証明してくれていた。唇を伝わってくる彼の愛は、間違いなく本物だったから。

『さぁ、行こう。新しい日々へ』

『……うん!』

 赤ずきんはもう何も恐れていなかった。

 大きな決断をした赤ずきんにはもう、信じるとか信じないとか、小さいことはもう関係なかったから。

 ただ、大切な王子といつまでも一緒にいられることを信じて祈るばかりだった。